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ペルーのルチャ・レジェス

2014.10.31

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 ラテン音楽世界には、二人のルチャ・レジェスがいる。一人はメキシコのランチェーラ歌手であり、もう一人はペルーのクリオーヤ歌手だ。共に大きな人気を得て、絶頂期に若くして亡くなったという点も一致している。ともかく、両者ともに稀有の歌い手であった。
 今日はそんな、10月31日、ペルーの「クリオーヤ歌謡の日」に亡くなったペルーの「黄金の声のモレーナ」ことルチャ・レジェスについて紹介したいと思う。

 僕がルチャ・レジェスを初めて聴いたのは、ムシカ・クリオーヤを聴くようになって大分経った後だった。彼女の歌がすごい、というのはそれまでにもいろんな人から聞いていた。しかしCDやカセットテープのジャケットに映った彼女の、かつらをかぶって褐色の肌に長いつけまつげと派手な青いアイシャドウを塗った顔のインパクトの強烈さに、今ひとつ購買意欲がわかず長らく未聴のままだった。なので、初めて買った彼女のテープは、安いペルーの海賊版だった。そして、その音楽を聴いた瞬間、僕は撃ち抜かれた。その歌声はまさに黄金の声となって僕の心を虜にした。なぜ、多くの友人に勧められながら、僕は今まで彼女の歌を聴かなかったのか、と後悔した。それほど彼女の歌は素晴らしく魅力的だった。


 彼女は、ペルーのサクセス・ストーリーを体現した歌手だ。それと同時に、貧しい頃からの無理がたたって入退院を繰り返しながらの音楽活動に命を捧げた人だった。彼女は1936年にリマ市郊外のバリオ・リマックに生まれた。生まれてすぐに父を亡くし、母はルチャの他にも15人もいた子供を養えず、ルーチャは幼い頃から人の家に預けられたり、時には物乞いまでしながら大きくなった。家々を転々とするなかで、リマでも民衆のクリオーヤ音楽がもっとも花開いたバリオの一つ、バリオス・アルトスで音楽と出会い、いつしか彼女もムシカ・クリオーヤを歌い始めた。
 ナイト・クラブなどで着実に実力をつけた彼女は、58年についにラジオ・デビューを果たす。しかし翌年、ラジオ、クラブ、劇場などで歌っていた彼女を病が襲った。肺病から始まり、糖尿病、腎臓疾患、高血圧などの病気との戦いがその後生涯に渡って続くこととなった。
 そんな彼女を決定的に有名にしたのは、70年に初めて録音したLPだった。その冒頭を飾った「レグレサ」は、今なお彼女の代表曲として愛されている。こうしていよいよその名声を高めながらも、病状は一進一退で入退院を繰り返していた。

ホセ・アントニオ、プロピエダー・プリバダ、ハマス・インペディラスなど数多くの名曲を歌った彼女はバルスを最も得意としたが、マリネラや時にワイノなども魅力的に歌った。彼女に捧げられた二つ名も「黄金の声のモレーナ」以外にも、「ペルーのエディット・ピアフ」や「民衆の女王」などとも呼ばれた。

 しかし、そうして必死に闘病しながら歌い続けた彼女も、いつしか自分の死期が迫っていることを感じずにはおれなかったようだ。1973年の初め、彼女は親しいバルスの作曲家であったペドロ・パチェコを訪ねた。彼女の依頼は、自分の歌を愛してくれる人々へのお別れの歌を作って欲しいというものだった。驚いたペドロは、何を馬鹿な事を!と拒否したと言われているが、結局、彼女の情熱に負けてその依頼を引き受けることとなった。そうして生まれたのが伝説となった彼女の最後の歌「ミ・ウルティマ・カンシオン(私の最期の歌)」だ。情熱的なピアノとともに始まるこのバルスは、彼女の命が尽き、この歌が最期の歌となること、そして彼女とその歌を愛してくれた人々への感謝の気持ちが切々と歌い上げて、彼女の溢れ出る涙と共に曲は終わりを迎える。この曲を録音してすぐに彼女が亡くなることになるとは、この時はまだ誰も思ってもいなかった。

 その年の10月31日、クリオーヤ音楽を愛する人々にとって大切な日である「クリオーヤ歌謡の日」にルーチャ・レジェスはこの世を去ることとなった。その日の演奏会場へと向かう車の中で発作を起こし、あっという間に帰らぬ人となってしまったのだ。渋滞する車列の中で恋人のアルベルトは彼女を呼び続けたが、病院へとたどり着いたときにはすでに冷たくなっていたという。ルーチャ・レジェスの突然の訃報は多くの人々を驚かせ、そして悲しませた。当時のベラスコ大統領は副官を弔問に送り、多くの音楽家たちが悲しみのコメントを残し、最後のお別れに訪れた。
 翌11月1日は、いわゆる「死者の日」であり、ラテンアメリカの多くの地域で家族でお墓参りをする日になっている。リマの中心にあるサン・フランシスコ教会でミサを終えた後、11時頃彼女の遺体は音楽家たちに担がれて出棺した。彼女にお別れに来た多くのファンが彼女の姿を見て、「戻ってきて!」と代表曲「レグレサ」を唱和した。車に乗せようとする度に、人々がそれに反対し、墓地までの約6キロを結局様々な人に担がれ、見守られながらゆっくりと進んだ。(この時の様子はYouTubeで見ることができる) 棺が結局墓地に到着したのは3時間後だった。到着後も多くの人々が彼女に最後のお別れとお礼を伝えようとするあまり、かなり混沌とした有様だったという。それほど、彼女の死は人々にとり大きなものであった。


 貧しい生い立ちでありながら、リマの、そしてペルーの人々に最も愛された歌手となったルーチャ・レジェスは、37年の生涯の中で何度も離婚を繰り返した。更に病との闘いは想像を絶するものであったとも言われる。そうして彼女が残した歌は今も人々に歌い継がれ、変わることなく愛されている。一度彼女の歌を聴けば、それだけで多くの人が大きな衝撃を受け、やがてそのインパクトはさらに揺るがぬものへと変化する。深く表現される彼女の情感豊かな声は、彼女の歌一曲一曲をかけがえのない素晴らしい作品へと昇華させた。彼女のその早逝が悔やまれるばかりである。
 最近は、彼女の歌もベストなどが編まれたりとずいぶん手に入りやすくなった。どの曲、どのアルバムも素晴らしいが、最後に変わり種を一枚紹介するとすれば、彼女がラジオ出演した際のライブ録音「エル・ショー・デ・ルーチャ・レジェス」を上げたい。死後の75年に出たアルバムで、彼女のライブでの歌やおしゃべりを聴くことができるのは本当に嬉しい限りだ。ぜひ、代表曲に酔いしれた後にでも聴いてみてもらいたい一枚だ。
posted by eLPop at 15:42 | 水口良樹のペルー四方山がたり