日曜日は全部、というか大多数はブラックだった。
水曜日はまた違ってユダヤ人が多く、金曜日はもっとラテン系が多かった。ギャンブラーがいて、みんないい服を着ている。土曜日は典型的なラテン系の労働者、工場労働者とかが多く、酔っ払ってダンスをしていた。50年代には、そういう人たちはコルティーホが好きだった、50年代末、58〜60年ぐらいのパレイディアムの土曜日はそんな人たちでいっぱいだった。
そして、日曜日はブラックだ。80〜90%がブラックで、踊るのが好きでうまかった。ラテン音楽を踊るのもね。音楽はラテンだけだ。
――ラテン音楽がブラック・ミュージックに影響を与え、逆にブラック・ミュージックがラテン音楽に影響を与え…
コンビネーションだよ。隣はジャズの<バードランド>だから、ジャズ・ミュージシャンが<パレイディアム>に聞きに来ていた。そして、ラテンのミュージシャンも<バードランド>に聞きに行っていた。カウント・ベイシー、デューク・エリントン、スタン・ケントンなんかをね。みんな、いろんな目的で聞きにいって、それぞれが互いに影響されていた。
――それで、あなたもよくジャズをやっていたんですね
あれは、ラテン・ジャズのひとつの形(form)なんだ。私がやりたいと思った形だよ。当時は“ラテン・ジャズ”ではなく“インストゥルメンタル・マンボ”と呼んでいた。つまり、ダンスのための音楽。ダンサブルということだ。
ティト・プエンテは、クラシカルなインストゥルメンタル・マンボの素晴らしいアレンジをしていた。歌手なしのね。ティト・ロドリゲスもそう。もちろんマチートも。
ラテン・ジャズという言葉はあとからできた。「アフロ・キューバン・ジャズ・スイート」…マチートがパーカーとやったようなの・・・は40年代にあったんだけど。
――マイルス・デイヴィスがアルバム『ビッチズ・ブルー』を出しましたが……
それはもっとあとの話しだろう(70年)。彼は50年代にはもっとジャズらしいのをやっていて、60年代末からそういった、ハービーやチック、ジョー・ザヴィヌルを使って実験的なものをやっていったんだ。
――彼はあなたからもそうとう影響されたんじゃないか?と、勝手に思っているんですが。
(質問には答えず…)マイルス・デイヴィスは信じられないぐらいの天才なんだ。彼はあらゆる種類の音楽を愛していた。ラテンも大好きだった。ジャズ・ミュージシャンはいつでもラテンが大好きなんだ。
なぜなら、米国では太鼓が禁止されていたから。奴隷…私はslaveではなくafrican captivesという言葉を使うんだが…の時代、トーキングドラムは、それを使って反乱を起こすのではないかと恐れられて、禁じられていた。だから米国では、太鼓は、音楽が発展したようには発展しなかった。農園やプランテーションで働く人の中からローカルなブルーズが生まれて、これがやがてジャズになっていった。
でも、カリブでは太鼓が許されていたので、キューバやプエルトリコなどの地域では、米国とは比べ物にならないほど太鼓が発展した。だからジャズ・ミュージシャンはラテンを愛している。
リズムはアフリカで生まれ、ジャズマンはそれをジャズと合体させた。ディジー・ガレスピーがチャノ・ポソを使ったようにね。47〜48年ごろ、彼らが「マンテカ」など、スペシャルな曲を作った。
いまでは、ラテン・パーカッションを使うジャズがたくさんある。リズムというのは、とても複雑だしエキサイティングだ。それを利用する方法がわかっていれば、そして、それを音楽に取り入れる方法を知っていれば、新しい種類のジャズ(exciting form of jazz)を作ることができる。
ジャズ・ミュージシャンはそうやってラテン・リズムを取り入れてきたし、ラテン・ミュージシャンはジャズのハーモニック・ストラクチャーを使ってきた。そうやって、さまざまな情報を交換しながら、発展してきたんだ。
(続く)


