66年にカルがニューヨークに来たときチーターで一緒にやって、彼が私の楽団ラ・ペルフェクタと録音したがった。これは彼のヴァーヴ・レーベルからで、もう1枚、私が在籍していたティコに録音がある(67年:アルバム『バンボレアテ』)。
カルはとても才能がある人で、ラテン・ジャズのイノヴェーターのひとりだね。とてもラテン・ジャズを愛していて、モンゴ・サンタマリアやウィリー・ボボなんかと録音していたから既に人気者だった。58年にニューヨークに来たとき、モンゴやボボをプエンテから引き抜いて、カリフォルニアに連れて行ったんだ。
――このジャケットではトラディショナルな服装ですよね・・・
この写真をとったのはMOMA(The Museum Of Modern Atr:ニューヨーク近代美術館)の庭なんだ。ふたりとも同じような服装をしているね。
――1〜2年後には服装がまったく変わっていますね。
すべてが変わったから。70年代になるとすべてが変った(another ball game)からね。みんながジーンズとスニーカーを履くようになり、ドレス・コードが変わってしまった。週末のダンスパーティだけはスーツを着ていたけどね。ほかの部分ではすべてが変わった。
このあと69年、エディ・パルミエリはアルバム『フスティシア(“正義”の意)』をリリース。これ以降、社会問題に深くコミットする作品を世に送り出すようになっていく。
――当時、アフリカ系黒人たちの公民権運動などにも影響されましたか? マーティン・ルーサー・キングやマルコムXに?
当時、ブラック・パンサーがあって、そしてヤング・ローズ(Young Lords)もあった。ヤング・ローズはラテン系の革命主義者たちで、そういったことがすべて同時期に起こった。ベトナム戦争があった時代だ。
戦争にはみんなが反対していた。おそろしい時代(terrible time)だった。世界には、特にニューヨークには、怒りや敵意が溢れ、学校にも学生の中にも実に嫌な気分が漂っていた。戦争に行って帰ってきた人たちも歓迎されなかったし、おそろしい時代だった。
――ラテン系の人たちもそういった運動に参加したと?
プエルトリカンの運動がヤング・ローズなんだ。黒人がブラック・パンサー。
彼らにはそれぞれ別の理由があった。私はヤング・ローズを支援するために刑務所でも演奏したし、いろんな録音をした。その中のひとつがシンシン刑務所でのライヴ(72年リリース)だ。もちろん、ほかのあらゆる場所でもやったけどね。食っていかなきゃいけなかったし。
――シンシン刑務所でやったのは、ヤング・ローズがたくさん収監されていたからですか?
いや、友だちがいたからさ。ほかにもいろんな刑務所で無料コンサートをやったんだが、シンシン刑務所でのライヴを録音するというアイディアが出て、ティコ・レコードにいたジョー・ケイン(Joe Cain)という男が…もともとジョー・カイアニ(Joe Caiani)というイタリア人だがジョー・ケインに改名して…そのライヴを録音した。あのLPはとてもよく売れた。
――プエルトリコ大学でのライヴ(71年)は…
これは学生が、ステージにマイクを2本置いて録音したものだ。クローゼットの中に6〜7年置いてあったんだが、ある会社(ココ・レコード)と契約をして出すことになった。兄がオルガンを弾いている。
――プエルトリコ大学でやったのは、そこが学生運動の拠点だったからですか?
いや。単なるコンサートだった。プエルトリコで公演をして、そのついでに大学で学生のために演奏することになった。それを録音した人がいた、ということだ。で、テープをくれた。兄が長い間それを持ってたんだが、しばらくしてから、トランペットをオーバーダブしたりして、ちゃんとリリースした。これもいいセールスをあげた。
――なにか特別な政治的な意味は?
いや。単に大学でのパフォーマンスだね。
――政治的集まりなどで演奏したことはありましたか?
いや、ないね。でも、彼ら(ヤング・ローズのメンバーら)がライヴを見に来て、資金を援助してくれないか、ということはよくいわれたし、できる限りのことはした。でも、私自身がヤング・ローズのメンバーだったことはない。
――以前、地下革命組織の“ウェザーマン”の話をしてましたが。
ああ…。彼らはアルバム『ハーレム・リヴァー・ドライヴ』(71年)がお気に入りだった。でも、期待したほどのセールスを上げなかったので、ラテンを続けていくことにした。
――その『ハーレム・リヴァー・ドライヴ』ですが…
アレサ・フランクリンのオーケストラにいたロニー・クーバー(サックス)が、コーネル・デュプリー(ギター)、バーナード・パーディ(ドラムス)といったメンバーを集めた。で、ラテンとR&Bを混ぜ合わせた。このコンセプトは人気が出て、すぐにラジオでオンエアされるようになったんだ。
とても面白いコンセプトだったし、素晴らしいミュージシャンばかりだった。なにか別のことをしてみようという実験だったんだが、経済的には成功しなかった。なので、ラテン音楽に戻った。
――こういう音楽はラティーノだけでなく黒人たちにもアピールしたのではないでしょうか?
そのとおり。ラティーノたちよりも、アフリカ系黒人たちにアピールしたんだ。ラテン・ミュージシャンはもともとラテン音楽しか演奏していなかったから、私がそれを録音したときも、ラティーノの聴衆はラテン音楽を期待していた。「バモノス・パル・モンテ」とか「ムニェーカ」とか、そういう音を聞きたがっていた。だからその世界に戻って、アルバム『バモノス・パル・モンテ』(71年)を録音して、それが人気になった。チャーリーがオルガンで、チョコラーテ・アルメンテロスがトランペット。『バモノス・パル・モンテ』は『ハーレム・リヴァー・ドライヴ』とほぼ同時期にやっていた。そして『ライヴ・アット・シン・シン』も。71〜72年ごろのことだ。
(続く)


