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エディ・パルミエリとニューヨーク・ラテンA<バンド結成〜ブーガルー>

2014.09.18

――あなたの最初のバンド=ラ・ペルフェクタはトロンバンガの楽団ですね(1961年結成、62年にアルバム・デビュー)。

そう。バリー・ロジャースとブラジル人のホセ・ロドリゲスのふたりのトロンボーンで、ほかとは違ったサウンドを出していたんだ。



――それはあなたがヴァイオリンを好きじゃなかったからですか?

いや。それはバリー・ロジャーズに会ったからだ。彼は偉大な、エキサイティングなプレイヤーだった。当時誰も、私たちみたいにトロンボーンを使っていなかった。それで人気が出た。ほかのバンドと全然違ったからだ。聞いてもいいし踊ってもいい。エキサイティングなバンドだった。

――トロンバンガっていう名前はお兄さんのチャーリーが付けたとか。

そのころはパチャンガが人気で、そこ(チャランガ楽団)にトロンボーンを入れたから、(トロンボーン+チャランガで)トロンバンガとなった。トロンボーンが2本あったからそういったんだ。バリー・ロジャーズという天才がいたからね。ほかのバンドでは2本のトロンボーンとフルートという編成はなかった。ほかのバンドはヴァイオリンとフルートだった。

<註>
プエルトリコのモン・リベラ楽団もトロンボーン中心の編成であり、リベラとパルミエリ両方のプロデューサーだったアレグレ・レコードのアル・サンティアゴによって提案された編成だといわれる。両者とも62年に録音を行ったが、リベラ楽団の録音の方が若干早かったようだ。



――チャランガ楽団を率いてヒット曲を連発していたジョニー・パチェーコは、あるときからチャランガ編成をやめてスタイルを変えましたよね。

パチェーコはソノーラ・マタンセーラのスタイルに変えたんだ。マタンセーラはキューバでとても人気があって、セリアが最初に入ったバンドだけど、キューバ革命のとき(59年)メキシコにいて、そのままキューバを離れて米国に来た。マタンセーラのスタイルは、トランペット2本とティンバリートス(小さなティンバレス)をフィーチャーしたもので、パチェーコはファニアでのファースト・アルバム『カニョナーソ』(64年)でそのスタイルを取り入れた。それでとても人気が出た。彼は才能があったし、いつもグッド・ヴィジョンがあって、いい楽団を持っていた。で、ジェリー・マスッチとファニアを作った。

――彼がスタイルを変えた理由のひとつは、いいヴァイオリン奏者があまりいなかったから・・・というのは本当でしょうか?

そうだ。確かに、いいヴァイオリン奏者を見つけるのは難しかったし、彼はスタイルを変えたがっていた。やるべきことはもうやったので何か別のことをしたがっていた。そして、それを実行した。


ジョニー・パチェーコ、チャランガ時代のヒット「アクジュジェ」


ファニア・レーベルの第一弾アルバム『カニョナソ』から「ファニア」

 62年に『ラ・ペルフェクタ』でデビューを果たしたエディ・パルミエリは、『エル・モレストソ』(63年)『ロ・ケ・トライゴ・エス・サブロソ』『エチャンド・パランテ(ストレート・アヘッド)』(64年)『アスカル・パ・ティ』『マンボ・コン・コンガ・イズ・モサンビケ』(65年)と順調にリリースを重ねていった。

 ジャケットには、当時そうだったように、パチャンガ、マンボ、チャチャチャ、ソン・モントゥーノ…といったジャンル名が記されていることが多い。こうしたレパートリーをパンチ力満点のトロンバンガ編成で演奏するのがエディ・パルミエリ楽団の魅力だ。彼自身のアグレッシヴなピアノと相まって、ニューヨークらしいシュープな感覚のサウンドが生み出されている。

 65年ごろからは、キューバのペジョ・エル・アフロカンが“発明”した(63年ごろ?)モサンビケというリズムを取り入れるようになった。これは、そのままアルバム・タイトルにもなっている通り、キューバのカーニバル音楽であるコンガとマンボを合体させたもの、といえばわかり易いだろうか。




しかしこの60年代半ば、突然のブーガルー・ブームがラテン音楽シーンを席巻することになる。

――ブーガルー・ブームについて…

60年代半ばには、すべてが変わった。英語の歌詞、とてもシンプルなハーモニック・チェンジ。ブーガルー・ダンスっていう新しいダンスがものすごく人気になって、特に子供たちがのめり込んでいた。

――ブーガルーについてはどう思いましたか?

別に、なんとも思わなかったね。チェオ・フェリシアーノ、カチャーオと一緒に『シャンペーン』(68年)っていうブーガルー・アルバムも作ったけど、音楽的には特に……(註:自分としては気が向かなかったがレコード会社の意向でやらせられた、というニュアンスか?)。

ジョー・クーバの「バンバン」、そしてジョニー・コローン、ジョー・バターン、ウィリー・コローン。新しいバンドがニュー・リズムをやって子供たちに人気が出た。新しいダンスもあった。それがブーガルー。英語の歌詞でね。われわれはスペイン語でやってたんだけど。







――ウィリー・コローンやジョー・バターンについて。

彼らはみんな、すごく才能があった。で、みんなファニアに入った。私はそのころはファニア所属じゃない。ファニアに入ったのはもっとあと、80年代に入ってからだ。ルイ・ラミレス、レイ・バレット、ヨモ・トロ、ボビー・バレンティン、プエルトリコのパポ・ルッカ…みんなファニアだった。

――ブーガルーというのは、ラテンとR&Bのミクスチャーのひとつの見本だと思いますが、当時、ラテンとブラック・ミュージックの関係はどんなものでしたか?

もともとは違うものだからね。彼ら(アフリカ系黒人)は独自のスタイルの音楽を持っていた。ジェームス・ブラウンのようなソウル音楽とか…。

――ジェームス・ブラウンも聞いてたんですね?

もちろん。あんなに人気があったんだから。オーティス・レディングとか、デトロイトから来た素晴らしい音楽がいっぱいのモータウンとかも…。
ブーガルーはソウルとは違って、ラテン・リズムだ。シンプルなコード・チェンジで、英語で歌う。音楽的にとくに際だったものはないが、ダンスが人気になった。ダンスがついてくるとその音楽は人気が出る。
で、英語で歌うから、マチートとか両ティト(プエンテ、ロドリゲス)とか、古いバンドは聞かれなくなってしまった。以前ほど人気がなくなってきたんだ。私も自分の楽団で61年からやっていたが、67〜68年、ブーガルーのブームになると、オーケストラは続けられなくなってきた。仕事にならなくなってきたんだ。
でも70年代に入るとブーガルーは消えてしまって、ラテン音楽が復活してきた。英語の歌詞はもうなくなった。ファニアが台頭してきてからはね。

(続く)
posted by eLPop at 18:54 | 岡本郁生のラテン横丁