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エル・グラン・コンボの軌跡(4) ジェリーの加入

2014.09.02

(第3回より続く)

■アンディー・モンタニェスの脱退と新時代のスタート

77年のアンディの脱退は大問題だった。15年もグラン・コンボのフロントを張って来たあの声の脱退である。この時期はファニアの成功からサルサが最大の盛り上がりを見せ、オルケスタ間の競争が本当に激しいタイミングだ。

ファニアはヤンキー・スタジアムのライブをリリースし日本を含む世界ツアー、エクトル・ラボーは名盤”De Ti Depende”を、またウイリー・コロンとルベン・ブラデスはこれまた名盤”Metiendo Mano”を発表し、トミー・オリベンシアはラロ・ロドリゲスの加入という時代。バンド単位から、バンドのフロント・ボーカルに光があたってきている時代でもあった。
そんな中、油の乗り切ったアンディー・モンタニェスにベネズエラのディメンシオン・ラティーナから高額のオファーあったのだ。オスカル・デ・レオンの後釜だった。’76年に石油企業国有化でばらまき財政を行っていたベネズエラにはオイル・マネーがあふれていた時代だ。

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アンディ加入のディメンシオン・ラティーナ。前列右端。

アンディーの後釜探しは難航したが、最終的に今のボーカルの新人ジェリー・リバスが加入した。

ジェリーはそれまでコンフント・チャネイやラテン・ブラスと言ったバンドで活動していたが、ソノーラ・ポンセーニャのリーダー、キケ・ルカがアンディーの代わりを探していたイティエールに推薦したのだった。ジェリーはまだ21才。既に50才を超えたリーダー、イティエールを筆頭に、つわものぞろいのグラン・コンボのメンバーが並ぶオーディションに呼ばれたジェリーの緊張度は想像に難くない。

イティエールによれば、ジェリーをオーディションに連れて行ったとき、もともとロッケーロ(ロック少年)でもあり、ギター/トレスも弾く21才の、それも白人で青い目、長髪の彼を見て、ムラート(混血)が大半のグランコンボのメンバーはネガティブだったと言う。

一方ジェリーはガチガチに緊張して、本領発揮できなかった。そこで翌日、イティエールはジェリーの家に行きライブを録ったカセットテープを探させ、スタジオでメンバーにジェリーの名を明かさず聴かせたという。イティエールのほれ込み方がわかる。メンバーは一発で気にいって加入が決まった。

とは言えチャーリーとジェリーの新体制にはファンから色々声が上がった。しかし翌年’78年の『En Las Vegas』がゴールド・ディスク獲得のヒットとなる頃にはそれもなくなった。

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チャーリー(後列右から2人目)とジェリー(後列右端)がフロントとなったエル・グラン・コンボ。二人ともまだ下っ端。

■サルサ流アンディへのメッセージ

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"Internacional"(1976)

一方でアンディの脱退はグラン・コンボとアンディとの間に大きな遺恨を残した。そしてイティエールは音楽でアンディにけんかを売って行く。

まずアンディーが抜けて一作目の『Internacional』の曲「Buscando Ambiente」で”君は別の場を見つけて行ってしまった”とラブソングに皮肉を歌い込んだのを皮切りに、次のアルバム『En Las Vegas』の1曲目「Aqui No Ha Pasado Nada」では”人生には色々あるけど、こっちは何の問題もない。彼はやりたい様に去って行ったが、こっちは何の問題もない”と、チャーリーとジェリーの新体制で成功している今を歌い込んだ。

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"En Las Vegas" (1977)

アレンジもハードでピアノも叩きつけるような強いタッチで弾いていて刺激的な出来だ。それはその後’80年代のボビー・バレンティンやプエルトリコ・オールスターズでのホルヘ・ミジェーのアレンジへと繋がって行くような熱さがある。当然大ヒットした。対するアンディーも新天地のディメンシオン・ラティーナで返歌を録音している。

穏やかに聞こえるグラン・コンボの曲にも、ラテンの一つの伝統”隠喩/ダブルミーニング”があったり、またプエルトリコのヒバロ音楽(山間の農民の音楽)での”コントルベルシア”(観客からのお題に対して2人の歌い手が即興で歌詞を歌い込んで戦う遊び)の伝統がサルサの即興”ソネオ”や曲を通してのつばぜり合いにつながっていることなども楽しいところだ。

なお筆者が’96年にプエルトリコで見た35周年記念のコンサートではアンディもゲストに呼ばれ仲良く歌っており、その後もアンディーの飛び入り参加もしょっちゅうで、両者のわだかまりは無事解決している。

そして、エル・グラン・コンボは’80年代の黄金のヒット曲時代に突入する。それはNYが強かった70年代からシーンがプエルトリコに移る原動力の一つだった。

(ということで一休みして続く。)
posted by eLPop at 12:54 | 伊藤嘉章のカリブ熱中症